2011年10月31日月曜日

ああクセになってしまう

食べ始めるとクセになります
 秋の新栗は旨いですよ。アキバに数多くの老舗があることは、当ブログでもご案内していますが、1914年創業(出典は甘栗太郎のHPですが、コレは北澤重蔵さんが創業された甘栗太郎本舗まで含めていると思われます)の「甘栗太郎」も、そのなかに入るでしょう。あれれ、そんなお店あったっけと思ったヒトは、アキバの中央改札口を出て、ヨドバシアキバに至る横断歩道をとことこ。店内に入らず、空母ビル沿いに右に歩いてください。ほらほら、正面に見えてきたビルの一階に。ねっ、見つかったでしょう。階上はクリニックばかりがテナントです。「味よし、艶よし、風味よし」がモットーの甘栗は、食べ始めるとクセになります。


  3つのモットーの、どれが欠けても「甘栗太郎」の甘栗じゃないとか。だから、一店舗一工場が基本で、いつでも焼きたて新鮮な旨さになるそうです。甘栗は、天然由来の食物ですから、身体に悪影響を及ぼす添加物や保存料などを、一切使用しないのが本筋です。もっとも、最近は、スーパーなどでも販売していて、食するに便利な殻なし甘栗があります。あの袋を手にとって、裏側を凝視してみてください。まっ、厚労省から指導されないのですから、安全は安全なのでしょうが、「甘栗太郎」とは、一線を画した食べ物です。老舗は高らかにソレを訴求しています。



秋は新栗の最盛期です
  「甘栗太郎」創業者の柴源一郎(1917~2005年)さんは、茨城県下館市(現在は筑西市)の農家出身です。大学卒業後に中国へ渡り、甘栗太郎の前身「甘栗太郎本舗」に入社。輸送技術が未発展の当時、産地での甘栗の買い付け、天津港への集荷と積み出しは、大変だったと推察されます。中国河北省の甘栗の産地まで奥深く出かけて買い付けていましたが、第二次世界大戦の影響から、栗の貿易量はどんどん収縮します。輸入量が激減したので、朝鮮半島の平壌栗まで、輸入販売していた時期もあったようです。この状況は、戦後、中国との甘栗貿易が再開される1949年まで続きます。


  柴源一郎さんは、帰郷して農業経営をしながら、小豆相場で活躍していました。この頃の相場師ぶりは、小説家・梶山季之が「赤いダイヤ」に執筆しています。そう、モデルは「甘栗太郎」創業者だったのです。甘栗の輸入再開を見て、小豆取引を止め、本拠地を神田青果市場に近い場所に移転します。1956年、「株式会社甘栗太郎」が創業され、本格的に甘栗の売買に着手しましたが、1958年に中国の国旗を引きずりおろして踏みつけた「長崎国旗事件」が発生。貿易と文化の交流が途絶え、会社は倒産しそうになりました。相場師人脈がココで生きます。


いかにも商品に自信ありの笑顔
  柴源一郎さんは甘栗の輸入再開を、当時の通産大臣に掛け合い、「政治と商売を切り離して考えて欲しい」と直談判。その結果、栗は友好“配慮物資”に指定され、貿易を再開できました。「甘栗太郎」は、最盛期、全国に40店舗以上もありました。現在は7店舗体制ですが、本社は四谷にあり、アキバの「甘栗太郎」は、創業地となりました。ちなみに、墨田区亀沢で創業した「イシイの甘栗」という、やはり甘栗小売店があります。コチラも天津港から荷積みされた甘栗が原料です。そう、甘栗を天津甘栗と呼びますが、ソレは港の名称だったなのですね。


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