2010年6月28日月曜日

文化財銭湯「燕湯」

 JR「御徒町」駅から路地裏道を通り、アキバ方向に向かいます。線路沿いの道から3本ほど中央通りに向かった路地です。アキバ方向に向かえば、銀色の煙突が近づいてくることでしょう。ソコが、いまどき珍しい、なんと朝6時から入浴できる名物銭湯の「燕湯」です。
 
 入り口は歴史を感じさせますよね。千鳥破風の入り口から入場して脱衣場を見上げれば、立派な格天井。湯船には銭湯のお決まりの富士山の絵。月曜日はお休みですが、きょうみたいな蒸し蒸しする日の朝風呂は気持ち良いですよ。汗をたらりと流してからの出勤組も見かけます。
 
 浴場の両サイドと中央に島カランを備えたココは、両サイドカラン14箇所にシャワー備え付け。銭湯ならばケロリン洗面器ですよね。はい、お約束通りで、黄色い無地タイプのケロリン文字が色あせて消えたと思えるものがあります。浴槽は、浅めの浴槽と深めの気泡浴槽の2つ。
 
 浴槽背後のカベは岩組みの滝になっていまして、ペンキ絵の富士山を”借景”に。富士山の風景と浴槽の一体感はなかなかのものです。湯温は熱めです(うめてはなりません)。大体、45℃程度。ソコをグーっと我慢して、身体を沈めたときに出てくる「ふぅ~」。コレですよ。熱いのは深めの気泡浴槽の方です。

2010年6月23日水曜日

2倍のスカイツリー

 撮影場所は東京スカイツリーを撮るならココと評判の高い「十間橋」です。以前もご案内しましたが、その後を撮影しに出かけました。東京タワーの高さを超えてから、見物客とカメラマンの人数がぐっと増えています。スカイツリーへのアクセスは東武の「業平橋」駅が至近ですが、十間橋は都営浅草線か地下鉄半蔵門線の「押上」駅が便利です。 


 建設途上のツリーは「北十間川」のほとりで建築中です。運河沿いにはいくつかの橋の上が格好の見物スポット。毎日の定時を決めて撮影にきている高齢カメラマンがいます。「雨の日でも来るんですか?」「台風でも来ます」とのことです。「できちゃったら、いつでも同じ被写体になっちゃうじゃない」。なるほどねぇ。


 十間橋は運河に映った逆さツリーを撮影できる数少ない場所です。「もうすぐ、全体が撮影できなくなるよ。写真を撮るならいまのうち」と、その貴重さを教えてくれる地元のヒトまでいます。小生もそれにトライしてみました。常連らしいカメラマンは、「きょうは風があるからね。無風だったら、ばっちり撮れるよ」。





「よく、あんなものを建てれるわねぇ」というおばさんに、やはり地元のヒトでしょうか、高度な建築技法を説明するヒトもいます。「アレは法隆寺の五重塔にも使われている技法で、心柱制震っていう建築方法なの。円筒形の心柱がツリーの中心部を縦に貫いて、外側を本体部分にあたる鉄骨の塔が覆っているでしょう。地震にも強いんだよ」。

 地震が発生した場合、心柱と本体の揺れるタイミングがズレるんですね。それで地震エネルギーを相殺するんです。誰が最初に考えたのか分かりませんが、千年以上も前の発明というのですから驚きます。完成すれば634メートル。長引く景気低迷で、お金を使ったレジャーを楽しめるヒトはほんのわずか。ツリー見物はいいですよ。タダで口をぽかんと開けて、癒されます。




2010年6月16日水曜日

道は通じている

 画像はアキバの末広町交差点から神田方向を撮影したものです。正面の通りは中央通りです。小生、道の歴史に興味がありまして、以前、その手の書籍を濫読したことがあります。日本で有名な道といえば、まずは五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)でしょう。起点の日本橋ができたのは1603年。翌年に五街道の起点となりました。

 一里塚もこのときに設けられ、さらに一定間隔ごとに宿場ができました。五街道の正式名称は1716年につけられました。東海道が1624年に完成、日光街道が1636年に完成(別説あり)、奥州街道が1646年に完成、中山道が1694年に完成、甲州街道が1772年に完成しています。東海道は天皇家と徳川幕府を結ぶから、一番目に完成するのは分かりますが、二番目が日光街道というのが面白いですね。

 日光街道は日本橋を起点に日光東照宮まで続いています。敷設した目的は、歴代徳川将軍が東照大権現に参拝するためです。つまり、徳川家康への感謝を忘れないための道です。道中には21の宿場があり、日本橋から宇都宮までのは、奥州街道と共通でした。国道4号線(宇都宮市以南)と国道119号線の通称として現在でも使われています。

 その最初の宿場が千住宿です。古くから水上交通の要所だった荒川北岸部の千住村は、戦国時代に千葉氏嫡流の支配下にありました。徳川家康が江戸城に移ると、1594年に千住大橋が架橋されました。インフラが整備されれば、発展が始まります。村は町となり、町域は広がるばかり。千住本宿は1-5丁目に、対岸の2町は南宿になりました。幕末には家が2400軒近く、人口が約1万人に達する江戸最大の宿場町になりました。

 あれれ、アキバから話がずれていると感じたヒトがいるかと思いますが、実は、アキバとともに成長してきた大学に東京電機大学があります。この大学が、現在の神田錦町から北千住に移転するんです。2012年4月に開校予定だそうです。もとはJTの土地だったようですが、八王子や埼玉と違い、都心に近い場所を確保できてよかったですね、工学部部長の脇先生(また、遊びに行きます)。

2010年6月1日火曜日

アキバもヨドバシ

 ヨドバシカメラの強みのひとつに、出店戦略をステーションサイドにしたことがあります。交通至便なターミナル駅至近の一等地でなければ、まず、出店しません。フロア全体に多数の商品を同時陳列・大量廉価販売する手法で、まずはカメラ販売で、続いて家電品販売で、新宿の百貨店の競合売場を駆逐してしまいました。
 
 小生がヨドバシカメラの、あの替え歌を知ったのは、新宿の映画館ででした。隣席には、当時交際していた彼女が座っていました。現在はテレビCMでもお馴染みですが、「新宿西口」の宣伝に、ヨドバシカメラが寄与した功績は相当のものでしょう。最近の歌詞には「アキバも」と織り込まれ、アキバの老舗家電店を崩壊させました。
 
 ヨドバシカメラが世間を驚愕させたのは、大阪のマルチメディア梅田店です。立地だけでなく、巨大新築ビルで、家電・PC・AV製品・玩具・ブランド品まで取り扱うとは。しかも、レストラン街まで用意するとは。ワンストップショッピングが可能とし、でんでんタウンを遺物に変えました。
 
 マルチメディア仙台を取材したとき、ヒトはわずか数10歩の距離も歩きたくないことを目撃しました。ラオックスよ、さようなら。ヨドバシアキバも同様です。駅直結といって過言ではないビルは、雨天・荒天でも、昭和通改札口からすーい、すい。傘を必要としません。小生はヨドバシアキバの年商は1千億円超と推察しています。
 
 ちなみに、梅田もアキバも、土地を自社購入し、そこに自社ビルを建設しています。わずか20店舗しかないヨドバシカメラが、その数10倍の店舗数を出店しているヤマダ電機の年商の3分の一も売っているのです。ヤマダが新宿に出店した理由は、ヨドバシ、ビックカメラなどの高効率店に魅力を感じたからです。